2019/05/05

新天皇即位の一般参賀レポート

昭和から平成になる時も皇居で時代の変わり目を体験したので、平成から令和も同じように直接この目で見ようと一般参賀に行った。
当日の様子をレポートしてみようと思う。

新天皇即位の一般参賀が行われる5月4日の朝は、9時過ぎに東京駅に到着。

構内アナウンスで一般参賀による混雑と帰りの切符購入・ICカードチャージを勧める案内が。
ただならぬ数の人出を思わせるには十分な予告である。

二重橋に近い東京駅丸の内南口から現地に向かうことにした。

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(一般参賀を案内する駅員)

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(女性用トイレの前は長蛇の列)

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(駅のコンコースには、天皇即位を祝う横断幕が。これをバックに撮影する人が多かった)

「人波を目指していけばなんとかなる」と思って、駅の外に出るが意外に人がまばらで苦労する。
何となく人が並んで歩いている方向を目指して行くと、徐々に列が出来上がっていた。

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(駅を出た時には、まだ人もまばらであった)

いろいろなルートから皇居を目指しているはずだが、人の数が少ない。
「もしかしたら、2回目の11時の回には宮殿前広場で見られるのでは?」
と淡い期待を抱く。

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途中で何台か右翼団体の街宣車を見かけるが、音楽もない(当然か)し、人も乗っていない。

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(右翼の街宣車[右にある灰色のバス])

日比谷通りに差し掛かり、和田倉門が見えるところに着いた時、甘い考えはあっさりと粉砕された。
コミケの待機列のような人の固まりが一帯を覆いつくしている。

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(日比谷通りから和田倉門を望む。群衆が埋め尽くしている)

日比谷通りを渡り、待機列に入ると、どこが最初で、どこが最後なのかわからない。
途中で日の丸の小旗をもらえると聞いていたが、それらしき人に遭遇することなく、皇居の敷地内に入ってしまったので、結局もらえずじまいに終わった。少なくとも自分がいた和田倉門の一団には、自前の日の丸以外に例の紙の小旗を持っている人はいなかった。

和田倉門の待機列は、縦に3ブロックに仕切られていたが、どういう順番なのかわからなかった。
ただ待って、自分の列が動くのを待つしかない。

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(和田倉門の待機列。縦に3ブロックに仕切られていたが、どういう順番なのか不明)

徐々に日が高くなり、額に汗がにじむ。
夏日の天気予報が出ていたので、日傘やタオル持参の人が多かった。
事前情報で「ペットボトルの飲み物はセキュリティのため、途中で没収される」と聞いていたので持参しなかったが、この暑さだと飲み切ってしまえそうである。

1時間ほど経って、ようやく待機列が動き出し、荷物検査と金属探知機によるボディチェックの2つのセキュリティチェックを受ける。

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(女性のDJポリスがマイルドな案内をしているが、隣で公安が群衆を撮影しているのが何とも不気味。一体どういう目的でどんな人を撮影しているのだろうか?

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(監視カメラが付いた警視庁の特殊車両)

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(セキュリティチェックのテントに向かい、検査を受けるが、非常にあっさりした感じ)

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(荷物検査後に金属探知機のチェックを受けたら終了)

セキュリティチェックを受けたら、すぐに宮殿に行けると思ったら、そこからが長かった。
直射日光が照りつける玉砂利の上に並ぶこと1時間以上。
11時の回どころか、12時の回も難しくなる。

「まさかこんなに時間がかかるとは…」

運動不足の体には、この待ち時間は負担が大きい。
交通事故の後遺症を抱える膝と腰に痛みが来る。
照りつける太陽を何度仰ぎ見たかわからない。

「飲み物なんか没収されないじゃないか!」

セキュリティチェック後も水筒やペットボトルで水分を摂る人を見ては、事前情報の元ネタ主を恨んだ。
もしかすると熱中症予防で警察も基準を緩和したのかも知れない。
暑さでやられた人が結構いたとのニュースも見たので、没収していたら確実に被害者は増えていたはずだ。

12時近くなり、ようやく列が動き出す。

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(二重橋の横を過ぎて、いよいよ宮殿へ) 

二重橋近くに差し掛かり、ここでまたペースが落ちる。
二重橋を撮影しながら歩く人が多いせいのようだ。

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正門石橋を渡り、渡櫓門を抜けると目の前に緑地が広がり、白い伏見櫓が目に入る。
目的地の宮殿(正式には、皇居宮殿 長和殿と言うらしい)はもうすぐだ。

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(緑地の先に伏見櫓が見える)

伏見櫓をすぐ左手に二重橋を渡ると、宮殿に入る門があり、その先にはテレビや新聞で見慣れた宮殿と広場が広がっている。

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(二重橋を渡る様子を正門石橋から見るとこんな感じ)

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(大きな門をくぐると…)

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(広大な敷地を持つ広場と宮殿が。これだけの人がいるのに、まだスペースに余裕がある)

広大な敷地の広場を見て、

「思ったより人が少ないな。これなら楽に天皇皇后両陛下を拝見出来るな」

と思ったら、甘かった。

人波に押されて、宮殿の中央付近に流れて来たが、通勤列車並みの大混雑。
特急とか急行レベルの込み具合。
この時の時刻は、12時半近く。
真上からの強い日差しと、押し合う人の熱気で頭がクラクラする。

13時のお出ましの前に何人かの人が気分が悪くなり、後方に下がって行くのを見た。
老人や子供には厳しい環境である。

待っている間、広場にあるスピーカーからは薄っすらと雅楽の調べが流れてくる。
これはテレビだけではわからない経験だ。
あとは、宮殿のバルコニーは意外に低いところにあって、2階のベランダよりもちょっと高いかな、と思うくらい。(個人の感想です)
国民に近いところにありたいというお気持ちの反映なのだろうか。

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(立錐の余地が無いとはまさにこのこと)

そして、いよいよお出ましの時間を迎える。
打ち振られる日の丸の小旗、スマートフォンやカメラが一斉に突き出され、視界が一気に塞がれる。

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(何も見えないところで、ノーファインダーで撮影)

カメラを下げようとすると隣の人にぶつかって下げられないし、汗でカメラが滑って落とすとマズいので、そのままファインダーを見ずに連射。
お言葉と手を振られる時間を含めて約10分間。
腕がしびれてプルプルしながら、汗だくになりながらの時間だった。

帰宅後にトリミングしたのが、以下の写真。
※全ての写真はクリックすると拡大して見られます。

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(皇居の緑が反射して、角度によってはこんな感じでよく見えないことも)

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基本は入れ替え制だが、排除まではされない。
お出ましが終わった後、後に続く人が大勢いるので、退場するように依頼するアナウンスが広場に流れている。
後ろの方にいたおばあちゃんたちが、次の回のいい場所を確保すべく、前に移動してくる。
あの暑さの中で待ち続けて体力的にもかなり厳しいはずなのに、このエネルギーはどこからきているのだろうか。

自分は、しっかりと両陛下と皇嗣殿下ご夫妻、両内親王のお姿を拝見し、お言葉を伺えたので退出することにした。

しかし、退出するのもひと苦労。
じわじわと動くくらいのスピードで緩やかな坂道を下る。
押し倒されないように気を付けながら皇居を出て、東京駅に着いたのは14時近くだった。

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(宮内庁の建物を左手に見ながら坂を下る。前回見たのは、昭和天皇崩御の時だったか)

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(宮内庁の前の広場でようやくひと息つく)

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(しかし、そこから先は駅に向かう人波であふれていた)

次の天皇即位の一般参賀には、行けるかどうかわからないだけに本当に得難い経験だった。
もし次行く時には、この記事を忘備録代わりに再度読み直してから参加したいと思う。
少なくとも今回よりはスムーズかつ快適に行けるはずである。

 

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2009/10/29

将軍 徳川秀忠のお墓の跡に建った豪華な建物とは?

東京・芝にある増上寺は、徳川家の菩提寺。

歴代将軍の霊が祀られています。

戦後、増上寺の敷地内には、東京タワーやプリンスホテルが建ちました。

その過程で徳川将軍の霊廟も移転の対象となり、お墓を掘り起こしての引っ越しとなりました。

江戸幕府2代将軍 徳川秀忠の霊廟もその一つでした。

将軍 徳川秀忠のお墓の跡に建った豪華な建物とは?
(霊廟を中心とした建物群の入口だった惣門。建物の多くは空襲で罹災・焼失。)

将軍 徳川秀忠のお墓の跡に建った豪華な建物とは?
(「台徳院」とは、徳川秀忠の院号です。)

跡地は西武グレープのプリンスホテルの所有地となり、ゴルフ練習場になってしました。

上京して、すぐの頃、変わり果てた姿を見て、愕然としたものです。
「大門」の名で知られる増上寺の三解脱門を見て、わくわくした気持ちが一気にたたき落とされた感じでした。

将軍 徳川秀忠のお墓の跡に建った豪華な建物とは?
(「大門」の名で知られる増上寺の三解脱門。この風景に「さすが将軍家の菩提寺」と期待したが…)

その後、再開発で「ザ・プリンスパークタワー東京」というタワー型の豪華なホテルになりました。

こんなに立派な建物です。

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2007/12/08

本日は記念日

本日は記念日です。

…と言っても、一体何人の人が気が付いてくれるのでしょう。

あんなに大きな出来事なのに、今となっては、ごく一部の人しかわからなくなってしまいました。

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2007/01/12

やはり「銀閣」に銀は貼っていなかった

日本史の教科書で必ず出てくる銀閣寺(正しくは慈照寺 銀閣)。

室町幕府8代将軍 足利義政が建立したもの。

偉大なる祖父 足利 義満が建てた金閣寺(これも正しくは鹿苑寺 金閣)に倣って、金箔を貼ろうとしたが資金が無く、その代わりに銀箔を貼ろうとしたがこれも叶わず。
結局、そのままになってしまった。

といった話を聞いたことがあると思います。

今では、元から漆塗りだったというのが通説ですが、最新の調査によって、やはり銀箔は貼られていなかったことがわかったとか。

自分が小学生の頃(25年以上前)には、「銀箔は貼られていなかった」という説が一般的でしたが、それでも「本当に貼られていなかったのか?」を追求し続けた研究者がいて、今回の調査発表に至ったというのは頭が下がります。

「通説をそのまま鵜呑みにせず、疑問に思ったことは自分で確かめてみる」という姿勢は見習いたいものです。

ニュースソースはこちら:「銀閣」に銀なし 成分分析で改めて判明


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2007/01/11

敵に塩を送った日

438年前(1569年)の今日1月11日は、「敵に塩を送る」の語源である上杉謙信が武田信玄に塩を送った日だそうです。

「敵に塩を送る」とは「敵の弱みにつけこまず、逆にその苦境から救う。(大辞泉)」の意。

信玄の領国は、海のない甲斐(今の山梨県)。
北条氏・今川氏の包囲網によって信玄は塩を絶たれて困っていた。

これに対して、義に篤い謙信は、

「自分が信玄と戦うのは弓矢をもってすることであって、米や塩で戦うのではない」

と塩を送ることを決めたといいます。

同じ時代でも経済すら戦いの道具として使っていた信長や秀吉あたりだと絶対にこんなことはしないでしょうね。


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2006/10/08

『ズボン』の語源

久々にまとまった時間があったので、積んだままになっていた本を読んでいた。

その中の一冊に『図説・幕末戊辰西南戦争―決定版』というものがある。
桜田門外の変(1860年)から西南戦争(1877年)までの戦闘・暗殺・兵器・軍艦・軍装などをイラストと地図で著したもの。

学研が出している『歴史群像』シリーズの資料なのだが、歴史マニアに自分にはかかせない。小説の資料としても使われているようで、以前、作家 田中芳樹さんの事務所に行った時、本棚にこのシリーズが何十冊も並んでいた。

結構マニアックな本で、こういうスタンダートなものから、

三国志 上巻 (1)

こんなよっぽどの歴史マニアじゃないと読まない本まで幅広くラインナップしています。

図説・日本武器集成―決定版

似たようなものに新紀元社の資料集があるが、こちらはもっと専門的。

武器甲冑図鑑
(新紀元社の高松社長には、昔、仕事でお世話になりました。)

銀河英雄伝説ハンドブック
(田中芳樹さんの代表作といえば、自分の世代だとやはり『銀河英雄伝説』ですね。)

幕末の軍装を解説しているページにこんな記述があった。

「幕臣大久保誠知が『ズボンと足の入る』洋袴として名付けたもの。『タローズ』などとも呼ばれた。」(P.45 )

『ズボン』の語源は『jupon』というスカートの下に履く女性用の下着を意味するフランス語だと思っていたが、こういう説もあるのかと、書き留めてみました。

そういえば、最近の若い人は『パンツ』と言うのが普通のようで『ズボン』という言葉はあまり聞かなくなりましたね。

『ズボン』なんていうと年寄り扱いされそうです。

子供用の『半ズボン』という言葉ならギリギリ大丈夫といったところでしょうか?

【PJ's Surf】バーバリー顔料・2Wayカーゴ7分丈ハーフパンツ
(でも、通販サイトを『半ズボン』で検索しても、表示されるのはみんな『パンツ』だったりする…)

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2005/04/27

人を食った話 (【注意】心臓の弱い方は読まないでください。)

昨日に引続き、再び「人肉ネタ」である。

「人を食った話」とは言うが、まさしくこれは人を食う話。

昨日の記事みたいなシャレでは済まないので、この手の話が苦手な人は見ない方がいい。

人の胎盤自体を口にすることは、別におかしなことではない。

人や動物(主に豚)の胎盤から抽出した成分を「プラセンタ」あるいは「胎盤エキス」と称して薬として販売されていたり、病院でも使われている。

探してみると、こんな感じで売られている。

プラセンタ(胎盤)エキス製剤ビタエックスG.O.PLACENTA VITA-X 30ml×30本(医薬品) 送料無料

これは人の胎盤かどうかはわからないが、この病院では、

「成分は、ヒト胎盤より抽出したもの」と明確に書かれているし、 「(注射の)費用 1回3000円です。」とも書かれている。

古くは秦の始皇帝の時代から胎盤エキスは漢方で滋養・強壮・美容・若返りの秘薬として使われていたらしい。
現在では、このエキスを注射することで、免疫力を強化して抵抗力を高め、細胞の新陳代謝を促し、本来人間に備わっている自然治癒力を助け、心身の異常状態を正常に戻すと言われている。

このことから、女優や芸能人にも愛用者が多いという。

肩こり・腰痛・ひざの痛みはプラセンタ注射で治せる―五十肩、椎間板ヘルニア、変形性ひざ関節症、更年期障害、アトピー、美容にヒト胎盤エキスが効く!
(こんな本も出ています。)

しかし、これは行き過ぎだと思う。


自己責任でクリックして読んでください


※しばらく肉類を見るのも食べることも出来なくなりますので、その覚悟で。
ちなみに自分は、深夜2時にこの記事を読んで眠れなくなった。

どう考えても「胎盤」の域を超えている!

ベトナムでは、孵化しかけた卵を食べるが、これも近い感覚かも知れないが...

「中国人は、空を飛ぶものは飛行機以外、四本足のものは机以外のものは全て食べる。」

というが、まさか人間まで食べるとは。

実は、中国では人肉食の記録がいくつかある。

有名なところでは、 「論語」で有名な孔子の弟子 子路の話。

子路は死んで、その身を切り刻まれ、さらにその肉は醢(塩漬け)にされた。
孔子はそれを聞き、涙を流して嘆じ、家人に家中の塩漬け類を全て処分させ、それ以後一切(人肉の)塩漬けを口にする事はなかった。

なんて、話が出てくる。

もしかすると、これは「特撮」かも知れない。
いや、むしろそうあって欲しいものだ。

今の時代にこんなことが行われているなんて...


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2005/04/19

西武グループ崩壊は徳川秀忠の「呪い」だった!?

かつて米フォーブス誌は、西武グループ総帥である堤 義明「世界一の金持ち」と認定した。
あれから幾星霜、西武グループも堤義明も当時の栄光は地に落ち、今や見る影もない。

淋しきカリスマ堤義明

私は、

「徳川家の呪い」ではないのか?

と思うのである。

先週4月11日に西武グループが、東京プリンスホテルの隣接地に約300億円かけて建設した「東京プリンスホテルパークタワー」 (東京都港区)がオープンした。
33階建てで、エグゼクティブツインが1泊 5万7千円、デラックスツインは、4万5千円。なんと最上級スイートは1泊 98万円もする高級ホテルで、一般庶民には縁の無いところである。
しかし、西武グループ関係者は「グループ再生のシンボル」として期待する。

このパークタワー建設を指揮したのは、先日、証券取引法違反の罪で起訴された前コクド会長の堤義明。
その執念たるや東京拘置所からも開業に向けての指示を与えていたと言われるほどだったらしい。

実は、この東京・芝にある東京プリンスホテルは、元は徳川将軍家の菩提寺である増上寺の敷地の一部。

かつては、江戸幕府の威光を偲ばせる伽藍に壮麗な門、そして歴代将軍の霊廟(お墓)と大名から寄進された灯籠群などを誇っていた。

残念ながら、太平洋戦争中の空襲で多くは焼失、破壊された。

戦後、将軍家の霊廟があった土地を含む増上寺の墓地が売却され、西武グループ創業者で堤 義明の父 堤 康次郎の手に渡った。
当時、西武が不動産を買い漁る様は、最近のニュース番組や新聞の解説、あるいは猪瀬 直樹の著作「ミカドの肖像」に詳しいのでご存じの方も多いのではないだろうか。

ミカドの肖像

「強盗 慶太」 「ピストル 堤」

「強盗 慶太」とは、東急の総帥 五島 慶太を表し、 「ピストル 堤」 とは、西武の総帥 堤 康次郎のことを言い、それの強引な手法から、このように称される。
ライバルとして並び称された両雄だが、いずれも戦前・戦後を通じて、激しくの混乱期に国内不動産を買い漁って財を成したという点では共通する。

増上寺の土地も、堤には金儲けのネタの一つにしか過ぎなかったのだろう。

買収した土地には、東京プリンスホテルが建てられた。
徳川将軍家の霊廟は、発掘された後に増上寺の敷地内の片隅に改葬された。

ここには、2代 秀忠、6代 家宣、7代 家継、9代 家重、12代 家慶、14代 家茂の6将軍と14代 家茂夫人である皇女 和宮らが眠っていたのだが、霊廟跡の土地には、芝ボーリング場と芝ゴルフ練習場が建てられた

芝ゴルフ練習場は、2代将軍 秀忠の霊廟跡のちょうど真上に位置するのだが、多くの人は、そこが秀忠の墓であったことを知らずに土足で踏み付け、打ちっぱなしゴルフに興じていたのである。

小説 徳川秀忠

そして、その事実は、ほとんど知られることなく、芝ゴルフ練習場はその歴史に幕を閉じ、今度は霊廟跡にパークタワーが建設されるのである。

後世の人間が、土地を有効利用しようとすれば、かつて墳墓の地であった所も開発しなければならないこともある。
それ自身は、やむを得ない部分があるのも仕方がない。

しかしながら、死者に対する尊崇の念というものは、絶対になければならない。

このケースでも、霊廟の跡地に何かを建てなければならなかったとしても、何らかの配慮があってしかるべきではなかったか。

ゴルフの打ちっぱなし練習場を造るのがベストの選択だったとは到底思えない。

堤 康次郎、その後継者である堤 義明にも、徳川将軍家の霊への思いやりというものが、欠落していたのではないだろうか。

今回の事件とパークタワーの開業が、奇妙にシンクロしたのを見るに、これは「西武グループ=堤家」に対する徳川将軍家の「呪い」ではないかと思ってしまうのである。

呪い方、教えます。

永井 荷風の随筆に書かれた将軍家の霊廟の発掘改葬に関する記述を読むと、なおさらその思いが強くなる。

〓東(ぼくとう)綺譚
(永井 荷風と言えば、教科書にも出て来ます。)

12代将軍 家慶は、

顔の肌の色は昨日息を引き取った人のそれのよう。
おかげで瓜ざね顔で鼻の高い「大名顔」ともいうべき高貴な面貌や、華奢な骨格まで観察にことを欠かなかったのである。
だが外気に触れて、ものの三十分もたったかと思われるころ、乾燥しだした皮膚はにわかに裂け目を生じ、鉋屑のようにくるくるとはがれだしたではないか。

6代将軍 家宣は、

家慶の場合より、もっと完全な姿で再び日の目を見たのが六代家宣である。彼の死体は二重の銅棺に束帯姿で収まっていたのだが、なんら人手をわずらわさずに天然のミイラすなわち屍蝋と化していた。

(出典は、こちら

「科学的な処置や自然環境が整っていたから、保存状態が良かった」

と言ってしまうのは、簡単である。

それでも数百年にわたって、状態を維持できたのは、天の配剤である。
私は、その天運を呼び寄せたのは、歴代将軍の霊力ではないかと思うのである。

それだけ強い霊力を無碍にした結果が、今の堤家や西武グループの凋落ではないのだろうか。

(今回は、ちょっとオカルトっぽい感じになってしまいました。)


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4 人間てあんま変わらない(;^^)。
2 金太郎飴の世界

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2005/03/17

「にほん」と「にっぽん」どっちが正しい?

「日本」という文字を読むときに「にほん」「にっぽん」と2種類の読み方がある。

NHKのアナウンサーなどは、

「にっぽん」

と発音するし、今話題のニッポン放送もそうである。
紙幣には「日本銀行券」「NIPPON GINKO」と印刷されているから、これも「にっぽん」である。

一方、東京の「日本橋」「『にほん』ばし」と読むし、「日本書紀」「『にほん』しょき」と読む。

さて、どちらが「正しい」のだろうか?

日本の国号

いろいろ調べてみると、政府としては、「にっぽん」が「正しい」としたかったようである。

実は、読み方を統一しようとした動きが戦前にあったらしい。

1934年(昭和9年)に文部省臨時国語調査会「にっぽん」統一された。
(例外的に前出の東京 日本橋と「日本書紀」だけは「にほん」と読むことになった)
しかも、その時に外交文書における国号の英文表記を「Japan」から「Nippon」に変更されたという。

ちょうど、この頃、満州事変が勃発。
侵略行為を非難された日本は、国際連盟を脱退し、次第に世界の中で孤立を深めていたころである。

そうした中で「保守回帰」が起こり、「Japan」ではなく、「日本」を採用。
穏やかな語感の「にほん」よりも音韻的に力強い「にっぽん」を選んだという経緯があったようである。

コミック昭和史〈第3巻〉日中全面戦争~太平洋戦争開始

文部省臨時国語調査会の決定を受け、帝国議会でも審議された。
1941年(昭和16年)には、帝国議会で国号である「大日本帝国」の発音を「だいにっぽんていこく」と定めるべく検討がされたが、結局保留のまま法律には至らず。
日中戦争などの戦局の悪化や太平洋戦争直前でもっと大きな問題が山積していたのせいもあったのだろう。

そして、戦後。
1946年(昭和21年)、帝国憲法改正特別委員会で「日本国」「日本国憲法」正式な読み方について質疑行われた。
この時の金森徳治郎 憲法担当大臣は、

「決まっていない」

と答弁し、再びうやむやに。

その後、この件は忘れ去られたと思いきや、戦後25年が過ぎた1970年(昭和45年)に札幌冬季オリンピック開催の前のタイミングで再び復活。

同年7月に佐藤 栄作内閣は、「日本」の読み方について、

「『にほん』でも間違いではないが、政府は『にっぽん』を使う」

と、「にっぽん」で統一するとの閣議決定を行ったが、やはり法制化にまでは至らず。

こうしてみると、戦前の延長線上で政府は「にっぽん」という読みを推して来たようである。

どうも「にっぽん」の呼び方に権力臭を感じたのもそのせいかも知れない。

同じように考える向きもいるようで、現在の日本で純粋な意味で唯一の「野党」ともいえる日本共産党

やはりというか「日本共産党」「『にほん』きょうさんとう」と読むそうです。

今は、社会民主党(社民党)と党名が変わってしまいましたが、旧名の社会党は、正式名称を「日本社会党」と言っていました。

この時の読みは「『にっぽん』しゃかいとう」

同じ左翼政党でしたが、読み名をみると、両者の権力からの距離というかスタンスの違いが感じられてなかなか興味深いものですね。

あなたは、「にほん」と「にっぽん」どちらを選びます?

私ですか?

私は強制されることと、他人と同じことをするのが大嫌いなので、昔から「にほん」派でした。


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2005/03/16

昔の中国人は、なぜ袖の長い服を着ていたのか?

ステレオタイプ的に「中国人」のイメージを描くと、頭は弁髪で半球型の帽子をちょこんと乗せている。
裾と袖が長い服を着て、両手を互いの袖に突っ込んでいる。
ツルッとした顔に、細い目と八の字型のドジョウヒゲでニーッと笑うおじさんの姿。

これだけ日本人が多くの中国人と接するようになった今でも目にする。

下の画面中央のキャラクターに注目してほしい。
これなど、ひと昔前の典型的な日本人の持つ中国人像であるといえる。
キン肉マン超人大全集―キン肉マン生誕25周年記念
(ご存じ人気マンガ「キン肉マン」。今でも「週刊プレイボーイ」で続編が連載されている。)

キン肉マンII世(Second generations) (Battle10)
(続編の「キン肉マンⅡ世」

日本人だけでなく、比較的最近の中国映画でも、「中国人像」を連想させるものがある。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明〈デジタル・リマスター版〉
(「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明」1997年 香港)

中国の服飾史を調べると、上の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」のジャケット写真のように長い袖に長い裾というのは、確かに存在するようである。

チャイナ服 孔雀刺繍・赤
(これは女性用ですが、だいたいこんな感じの服です。)

では、それはなぜなのか?

続きを読む "昔の中国人は、なぜ袖の長い服を着ていたのか?"

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